ブルゴーニュの歴史

 

 

 1 ローマの入植

 

ローマ人より前に居住していたガリア人がいたが、この頃にはまだブルゴーニュで、さらには他の地域にすら葡萄栽培をされていたという歴史はない。これは紀元前1世紀ごろローマ帝国によるガリア入植により、ブドウ栽培がまず今の南仏に広がったとみられている。

 文字による記録だと312年オータンの町の葡萄畑所有者が、ローマ皇帝に嘆願書を出したものが残っている。葡萄の質、生産量が少なく、税率の軽減を求めたらしい。>

 

その後のゲルマン民族大移動期にブルグンド人がブルグンド王国を建国したのがブルゴーニュの地名の由来である。

 フランク王国時代にブルグンド王国が建てられ、カペー朝のフランス王国時代になると、第2代国王ロベール2世の子ロベール(1031-76)がブルゴーニュ公に封ぜられた。

 公国が消滅してもこの地域はブルゴーニュ と呼ばれる続けている。

 

 *オータンはボーヌより西に入ったかつての大都市である。初代皇帝アウグストゥスによって作られた。

 

2 修道会

 

6世紀になるとブルゴーニュに多くの修道院が誕生し、畑が増えていく。

630年ごろには、ベネディクト派のベーズ修道会に畑が寄進され、シャンベルタン・クロ・ド・ベーズの原型ができる。

そして910年に設立されたクリュニュー修道院はその後500年に渡り権勢を誇る様になった。

しかし、時の権力たちと結びつき、徐々に精神的堕落が見え出すとシトー派と呼ばれるものたちが誕生した。戒律の厳しい敬虔な勤労生活をモットーにしていたという。

 12世紀に入るとシトー派の修道士たちが寄進された土地を開墾して、現在のクロ・ド・ヴージョが生まれる。その後、ブルゴーニュの畑は修道士の指導の元、驚くほどの発展を遂げた。

 修道士たちは、畑によってワインの味わいが微妙に異なることに気づき、ぶどう畑を小さな区画に分けた。特に優れたところは『Closクロ』と呼ばれる石垣で囲まれた畑となった。現在のグラン・クリュやそれに匹敵する畑は、有力者に行き渡り、教会の権勢はさらに高まっていった。

一例としてワインの評判はブルゴーニュ公国からパリの宮廷へと広まった。ルイ14世の侍従医であるファゴンは、ブルゴーニュのワインを飲むことを推奨したという。

 

 

3フランス革命

フランス革命により、多くの土地が没収された。

特に権力者や教会の土地のほとんどは破壊され、没収された。国有化された畑は、格安で競売された。

  その後、ナポレオン法により、長子相続が廃止になり、兄弟分割相続が行われた。現在の畑の細分化はこの影響である。

 

現代

 ブルゴーニュではネゴシアン制度が発展したが、世界大戦中の不況によりネゴシアンからの買い付けが減った。さらに他の地域のワインをブレンドする不正が横行したため、ぶどう農家は自社瓶詰めを決意する。

 Marquis d’Angerville Henri Gouge Armand Rousseau など、自社瓶詰めをして販売するようになった。

 

*ネゴシアンとは、ぶどうもしくは醸造されたワインを買い上げ、瓶詰め以後の作業をおこなう大規模経営の商人のこと。